2026年2月16日月曜日

後遺症

久しぶりの闘病系ブログです。

4カ月前に大腸+膀胱の疾患でよもやの12時間に及ぶ大手術を敢行。その際、右腹部に造設したストーマ(人工肛門)で不自由な3ヵ月間を過ごし、そして約1ヵ月前の昨年末にそのストーマの閉鎖術を受けたわけです。(不整脈によるカテーテルアブレーションのオペはこれからです)

そんなストーマ閉鎖術以降、経験者の皆さんの間では数年間に及ぶ後遺症とも言うべき“頻便”に悩まされるといいます。1日に何十回もの排便により日常生活に甚大な影響を及ぼすとか。。

幸い僕の場合はそこまでの頻便に悩まされることはなく、強いて言えば排便時1時間の間に5~6度、連続しておトイレに駆け込むような切羽詰まった状態にはなりますが、幸い下痢的症状は小さい頃から慣れっこなのでこの程度はへっちゃらなのです。


…小学生の頃、学校でうんちをすることは大罪でした。昭和生まれの人間であるなら、経験があることでしょう。

一部の小学生にとって学校内でうんちをすることはかっこうのイジメの対象、ホントにあの頃の小学生達は残酷でした(もちろん全員ではなく、必ずクラスに2~3人いるイジワルでデリカシーに欠ける子達です)。

そんな僕は小さいころからおなかがすこぶる弱く、常にうんちをもよおしてしまう体質にて、朝、学校に出かける前はそれこそ深刻でした。
何とか家のトイレで用を済ませたいのにそんなに都合よく出るものじゃあない。それどころか、学校内にいる間に受ける様々なストレスに晒されることでおなかの調子が悪くなるわけで、1日約7時間ほどの学校での滞在時間中、ずっとおなかの調子に怯えていたといっても過言ではありません。

そんな日々決死のトイレ事情において、忘れられない出来事があります。

小学校5~6年生頃だったと思う。インドアな僕がなぜか夏休みの町内会・川遊びイベントに参加することとなり、町内会の方々含め十数人の子ども達と奥多摩まで出かけることとなったのです。
しかし案の定、真夏とはいえ奥多摩の川の水は冷たく、あっという間におなかが痛くなってしまい、いきなりの大ピンチ!。
しかしうっそうと茂る森の中の川べりなどに、まともなトイレなどあろうはずはなく(掘っ建て小屋みたいないわゆる昔のぼっとんトイレはあったと思うけど)、いよいよおなかの痛みが治まらなくなった僕は鳥肌とともに顔面は青冷め、ブルブル震えだす始末。

よもや我慢しきれず川の中でしれっと致そうものなら、その固形物がプカプカと川下へくだり、それが誰かの目に触れることで僕はその犯人として一生の罰を背負わねばならない。それだけは断じて許すことが出来なかった。

一方、そんな切羽詰まった僕の傍らに同じく同様の症状を醸し出している文房具屋の息子・たつや君がいたのです(うちは電器屋、たつや君は文房具屋)。

お互いのその様子を察した僕らは目を合わせ、川の奥の茂みへ一目散。
誰にも見られないよう、草木の生える影で隣り合ってしゃがみ込み、いよいよお尻から顔を出しかけていたうんち君を勢いよくひり出したのでした。
がまんにがまんを重ねていたおかげか、凄まじい量だったわけで(そのときの便の色(薄い茶色)・形(軟便でした)はいまでも瞼の裏にしっかり焼き付いています)、そのあとお尻をきちんと拭いたかどうかなどは記憶になく、そのままたつや君とそそくさと、なにごともなかったように川の中へ再度インしたわけです。

それ以降も校内ではトイレに誰もいないことを見計らい、瞬足の勢いで便をする術を身につけ、しかし学校から家までの帰り道ではいよいよ間に合わず、駐車場のクルマとクルマの陰でいたしてしまったり(当時は砂利敷きや土のままの駐車場ばかりだったからね)。高校、大学、社会人となってからは駅のトイレに間に合うかどうか。朝の駅のトイレなどはほぼ満室のため空いていることはほぼ奇跡。時に間に合い、時に間に合わず。。。

このように僕の便事情というと、屈辱的なものから何から何まで、昔から延々と悩まされて続けてきたことばかりだったのです。

さてそんな悩まされ続けた便事情も、昨年の手術以降は少し状況が変わり、冒頭述べたような症状に変わりました。

その中でも便意をもよおすと、今までとは違う下腹部の圧迫感。それも尾てい骨のあたりがムズムズと、言葉に表せないようなイヤ~な感覚に襲われるのです。

手術時にS状結腸を丸ごと+下行結腸の半分を切除してしまったわけで、残された下行結腸の上半分と、肛門の手前にある直腸とを繋ぎ合わせなければならない。しかしドクターらはそれを「Tの字に吻合」したというのです。真っ直ぐに土管と土管を直列に繋ぐような形ではなくTの字に。とにかくそんな事情もあるのかもしれません。

ともかくも一度便意に襲われると、それは固形便から徐々に軟便、そして最期は下痢状の便へと変異をし、それが何度も延々と続くわけです(長い時で4~5時間、回数にして10回前後なんてのはざらという時もあります)。

これがきっと僕のオペ後の後遺症なのだろうと受け入れています。

いつか良くなることを信じると同時に、この程度のことであれば結腸膀胱瘻やストマに悩まされていたときと比べれば何てことはなく、それこそ同様の疾患が再発しないように、二度とストマを造設していただくような大事にならないよう健康を保ちたい。

今はそれだけを念頭に過ごしている今日この頃です。

2026年2月9日月曜日

冒険の終わり

冒険の終わり、これは僕の仕事のことを申しております。
23才で損害保険代理店事業に飛び込み、ここまで本当に様々なことがありながら、60才を過ぎてもまだ何とか業界にしがみつくことが出来ています。

かつて護送船団方式なんて言われた損害保険業界もすっかり自由化が板につき、かつて40年ほど前に東京海上の研修センターで共に過ごしたイカレた方々からすればきっと隔世の感どころか恐らく浦島太郎みたいな気分になること必至でしょう。
当時そのイカレた方々はそもそも他業界から転職してきて、一獲千金を夢見たかどうか、悪いことばかりしていたので、途中で不法行為がバレてクビになったり(保険料を使い込んだり、契約欲しさに顧客へキックバックしたり)、またはそもそも損害保険業界の地味すぎる業務内容に飽きて辞めていく方々もほとんどで。当時30才台~40才台の方が大半だった為、多くの方々は現役を引退されているか、亡くなってしまったとかいうウワサもちらほら耳にします。

幸い僕はこうした地味な仕事が性にあっているのかどうか、ストレスの溜まることは山ほどあるけれど、このお仕事を続けることが出来ています。
友人K君に言わせるなら、「これだけ長く続けられているということは、きっとその仕事が合っているという証拠だよ」と指摘してくれたこともあります。

しかし2026年1月のある日のこと、損害保険会社の面々ではなく、生命保険会社・アフラックの担当社員さんが新任ご挨拶という名目で我が事務所にやってきました。(それなりのベテラン感を醸し出されていました)

細かいシチュエーションは端折るけれど、単刀直入、「仲山さんは昨年、ずいぶんと体調を崩されたとのこと。このままアフラックの代理店業務を続けられたとしても、今の挙績を維持するのがやっとで、大きく右肩上がりに伸ばすことは難しいのではないでしょうか。
何なら私の担当する全国的な規模の代理店さんにご契約を引き継がれるという選択肢もあると思いますが。いかがですか?」

随分はっきり言うな~、と思ったけれどその位はっきり言ってくれた方が心地よい。
返す刀でそれはアフラックさんの代理店委託契約を解約することを目的とした最後通告という理解でよろしいか?と聞いてみる。

「いやいや、そんなことはありません。でも今後の成績や今期行われる可能性の高い監査等々の結果によって、アフラックから代理店委託契約の解除通知を受けられるよりも、ご自身で身を引かれた方がメリット(※)はあると思います」と、特に(※)の部分は生々しいことを仰られ、要はこの程度の成績でアフラックの代理店を名乗るなどおこがましいということをはっきりと宣告されたのでした。

ふむ、やはり最後通告みたいなもんじゃんと、普段の僕なら内心カチンときているところなのだけれど、今回はそれをはねのけるほどのガッツや未練がなかった。
それどころか実は渡りに船とさえ感じてしまったのです。

それはなぜか。
下世話なことを言えば保険の仕事って結局は「ご契約をいただいてナンボ」なのです。

もちろん僕はお客様の環境や経済状態などを鑑み、最善の提案をしたいと思うし、その提案の背景にある意味や哲学をよくご理解・ご納得いただいた上でご契約を結ばせていただいています(そのつもりです)。
とはいえ、そんなきれい事だけではなく、結局は結果(ご契約)が伴わなければ保険会社からの評価は受けられず(代理店手数料をいただけない)、このお仕事を続けることが出来なくなるのです(今のお客様をお守りするだけでいいなら、是非続けたいところなのですが)。

そんな営業成績に常にがんじがらめの日々を40年近くも続けてきたわけで、60才を過ぎた今、ストレス含め体調を崩し、半年余り入退院を繰り返したことですっかり疲れ果ててしまったというのも一つの理由です。

こんな気持ちを初対面の保険会社社員さんに悟られたくはなかったのです。
そして僕は言う。わかりました、ネガティブなことだけれど、前向きに検討してみましょう。とその日は別れました。

そして数週間が経過した後、かつてご縁のあったアフラックの大御所の専業代理店で、今も昔も仲良くさせていただいたスタッフの方に本件をご相談。
当社の取り扱い契約を引き継ぎ、安心してお客様をお任せ出来ると判断させていただいたのでした。(詳細はこれから詰めるので、2/9現在、アフラックがこの判断や方法を承認するかはまだわかりません)

こうして20年程前に再独立し、損害保険と生命保険の代理店事業をスタートさせたこの体制を少しずつコンパクトにし始めました。
第1弾として三井住友海上の代理店委託契約を2026年末をもって終了します(これは当社のスタッフさんが引退をすることに起因しています)。
そして第2弾がアフラックの代理店委託契約の終了(予定)。
第3弾はまだナイショです・笑(というか決めてない)

幸いこの保険代理店事業とは別に、友人Kのおかげで各所の医療機関さんで医療事務業務も請け負わせていただいています為、費用を切り詰めながらにはなるけれど、役員やスタッフさんにお給与をお支払いすることができ、かつ目配せも効く、身の丈にあったコンパクトな経営体制に落ち着かせることは(取り合えずは)出来そうです。

そう数々の野望(目標)を胸に秘めここまでやってきて、しかし何者にもなれないまま、そろそろ僕のこの冒険も終わりのときを迎えようとしています。
またこの会社を次の代へ渡す準備も出来ているけれど、そのときは彼らが取り組みやすいように整えておこうという思いでいます。

冒険の終わり。その終わりの始まりがスタートしたところです。

2026年2月5日木曜日

音楽活動の再開について

数年前のワタクシです(汗)
8月頃に始まった病状の悪化と診療(2度のオペと入院生活)から約半年。
全快とまではいきませんが、日常生活においてはだいぶ回復してきたと感じています(看護師たる奥さんにオペ後のまるでフランチェンと化したおなかの開腹・縫合痕やストマ痕の大きな穴ぼこなど、毎日ケアをしてもらってますが・・・)。

そんな今日この頃、僕の所属するバンドを、そのメンバーでもあり親友たるP君が一度解体・再生したいのだという。
よくよく話を聞いてみると、昨年頃から色々不満が溜まっていて、最終的に昨年の6月頃に生じたある出来事が決定打となり決断したのだといいます。
ただしその直後僕が体調を崩したので相談出来なかったとのこと。

そこまで思い詰めていたことに気づけなかったことが僕自身不甲斐なかったけれど、その案に僕は同意し、先日バンドは解散しました。。。
(数年間ご一緒いただいたJさん、Yさん×2。慣れない楽曲にお付き合いいただきありがとうございました。また対バンなどで機会があればご一緒しましょうね)

そして間髪を入れず、親友P君(ドラマー)はバンドの再生をかけ「ボーカルM君」、「ベースのMちゃん」(ふたりとも頭文字Mか)にメンバー入りをしてもらい、3月からバンドを再開する運びとなりました。(まだキーボードが見つからないけど、取り合えずスタートさせます)

昨年8月のオペ前にこの疾患のこと、ストマ造設などを覚悟・絶望し、奥さんの前で不覚にも泣いてしまった日、音楽活動を諦めようかと思ったあのときからすれば、今このときとても幸せな気持ちでいっぱいです。

バンドのこと、僕のことを気にしてくれる親友P君に心から感謝しつつ、また彼のことを喜ばせ、ふざけながらも狂気の演奏をご披露申し上げたい。

ボーカルM君の明るく弾けた歌いっぷりを間近に見ることがとても楽しみで(おまけにブルースハープを吹いてもらえるだろう)、ベースのMちゃんの器用さ、華奢なくせにその演奏はハードで正確なのでとても安心・信頼している。

とはいえこれから3回目のオペが控えているので、そこも何とか乗り切って早くスタジオに入りたいと願っています。

奥さん、家族、友人・知人、仕事。
そして人生に潤いを与えてくれるこの音楽活動を続けさせてもらえることに心から感謝し、半年ほど衰えてしまったこの左手指先がカチカチになるまでハードロックしてみようじゃないか♪