2025年10月10日金曜日

闘病日記・その3

術後2日目。
散々だった術後1日目を終え、いよいよこれから回復に向けて動き出さねばならない。というのも術後2日目についてくれた看護師さんがまだ2年目というのに本当に明るくてしっかり、説明も上手で良い方だったのです。(仮称Mさんとしよう)

そのM看護師さんが「ベッドから離れ、どんどんイスに座り、出来るだけ歩くんですよー!」と明るくリードしてくれる。その明るさに触発され、頑張って起き上がってみる。とすると、そのM看護師さんが「やったー!すごーい!」と褒めてくれるのだ(僕は褒められると伸びるタイプなのだ)。
そんな最中、その日の担当ドクターが背中の麻酔の管を取ってあげよう、とこれまた嬉しい知らせ。

術後3日目にはごはんも開始。明らかに僕の中のメンタルが3段階くらいあがった気がした。そう術後1日目の散々な1日と比較すると段違いだ。やはり病は気からというのは本当だと思ったし、お気に入りのハードロックをイヤホンで爆音にして聴いてみると、案の定やはり気分がかなり上がった。そして頑張って術後4日目には病棟内にある「屋上庭園」を散歩してみた。・・・気持ちいい!さらにはこっそり病棟内のローソンさんに寄ってマチカフェコーヒーも買って飲んだりした(もちろん2口くらいでやめた)。

この後もこんな気持ちの上がる良いことばかりとは限らず、ある夜中には当直の看護師さんのスキル不足により再度汚物まみれになったり(おまけに謝りもせず不機嫌そうだったことが人として残念に映った)、またはちょっと偉そうで横柄なドクターさんや一部看護師さんの雑な振る舞いによりイヤな気分になったり(きっと悪気はないのだと思う、虫の居所が悪かっただけさ)、まあまあ色々なことはあったが、それでも関わって下さる多くの医療スタッフさんと我が奥様の看護の甲斐あって自身を保ち続けた。

しかしそれも束の間、術後6日目。悪夢が襲う。

そう「腸閉塞(イレウス)」になってしまった。
夜中じゅう、おなかの中を行き場を失った何かが右に左に、上へ下へと動き回る。その都度捻じ切られるような痛みに顔をしかめ、こんな痛みに耐えるくらいならもう死んでしまった方がいいんじゃないかとベッドの上で身悶えしながら思ってしまった。

そして翌朝、ドクターに報告が為され、食事は中止。入院計画の見直しを迫られ、原因を特定する作業に移るのだという。
そんな術後6日目の悪夢の24時間を過ごした次の夜(術後7日目)。何かおなかの様子が違う、軽くなったようなと思う矢先に急に便が出始めた。
おなかの痛みはあるもののドバドバと便が出てきたのだ(もちろん人工肛門からね)。これってもしかしてドクターの1人が可能性として挙げていた「下痢止めの効き過ぎ」だったのでは?と訝しむ。

実は僕もそんな予感がしていた。元々クスリが効きやすい体質ゆえ、(僕にとっては)処方量が多すぎたのだろう。それはもちろん結果論に過ぎないので誰を責めるもないのだけれど、こんな12時間もの大手術をした人に対して、便の排出量を抑制するだけとはいえ、もう少し慎重さが必要だったのではないか、と偉そうに思ってしまった。

そんなこんなで、背中の管、心電計、おなかの管、尿の管と次々に外れていく。通りかかったドクターも「随分身軽になったね~」と声をかけてくれる。

術後わずか1週間で、痛みに身動きすら出来ず、ベッド上でイモムシかのごとく“のそのそ”していた男がシャンとしてきた。

特に一部を切除され、ヌイヌイされた膀胱もまずまず元気のようで、たまに血も混じるけど今までの糞尿まみれのおしっことは異なり、きれいな薄黄色になってきた。

さらには切除されたS状結腸の代わりにつなぎ合わされた直腸と下行結腸の様子も大腸カメラで確認。キレイな状態で健やかに僕のおなかの中で生き続けてくれていたようだ。

冒頭にご紹介した元気で明るい「M看護師」さんが何度か担当としてついてくれ、日頃の看護はもちろん、ストーマパウチ交換のアドバイス含め、支えとなってくれ、あとは点滴を外すのみとなったのです(Mさん以外にも印象に残る看護師さんはたくさんいらっしゃった。病棟内看護師さんの仕事ぶりには本当に頭が下がりました)。

術後2日目から術後10日目まで、ずいぶん駆け足で書いてしまったけど、ここまであまりに予測不能な事柄が多く、メンタルも激しく上へ下へ。当初1ヶ月の入院と告げられていたのだけど、間もなく退院も視野に入って参りました。

というわけで次回は1回目の入院編の結びに移りたいと思っています(年明けに再入院するので闘病生活はまだまだ続きますゆえ)。

2025年10月5日日曜日

闘病日記・その2

<手術明け翌朝>

・右手指先 酸素濃度を計るやつ

・胸周り うじゃうじゃと線だらけの心電計

・左腕 点滴の管

・尿道 おしっこを外に出すためのカテーテルが生えてる

・背中 麻酔の管(見えないからよくわからない)

・左腹部 術後の排液観察のためのドレーンが刺さってる

・右腹部 ストーマ(人工肛門、便の出口)

・下腹部 あちこちに穴が開いていてシールが貼ってある

もう右にも左にも動けず、自分の体とは思えないような有り様にまたも泣きそうになってしまう。そんな様子を見にきた男性の看護師さんが「必ず一つずつ外れますからね」と励ましてくれる。そんなちょっとした優しい言葉が嬉しい。

また看護学校の学生さんが研修のために僕につかせてほしいとの申し出が事前にあった為、その日の朝方、順天堂大学看護学校の先生と学生さんがやってきた。学生さんはともかく、50才前後と思しき女性看護師の先生はさすがに百戦錬磨。僕が今してほしいことを先回りしてくれる。前日よりベッド上でほぼ身動き出来ていなかった僕の腰に手を差し入れ、サスサスとずっとさすってくれ続けたことだ。ほんのこうした振る舞いがホントに嬉しかった。

こんな苦痛極まりない中での幸せ時間も束の間、朝一番から担当のがさつ看護師(仮称S看護師としよう)が「造影剤を使用したCTを撮るんで今から行きますよ」とこともなげに告げる。

『は?いま??夕方て話だったよ』と反論する暇も与えられないまま、あれよあれよという間に車いすにくくりつけられ、撮影室のある階まで移動。エレベーターやら段差やら各所を通過する度に痛む身体中が悲鳴をあげる(映画・ミザリーのポール・シェルダンのような気持ちになった)。
ようやくCT室の前に到着したものの、そこには外来患者さんも普通にいらっしゃるため、管だらけの僕をみて気の毒そうな視線を向けてくる。

いよいよ順番が回ってきていつものCT撮影台に載せ換えられるのだが、腹腔鏡の手術痕の影響などもあり腹筋を使えない僕のことを技師さんら(それも女性が多い)が懸命に支え、撮影台に移してくださった。そこでも痛くていたくて「ん”ーーー!」という呻き声をあげてしまう。撮影終了時にも女性技師さんの肩を思い切りつかんで起きるような有り様にホントに申し訳なさすぎだった(女性技師さんの肩にはきっと僕の手痣がついたことだろう)。

そんな拷問のような午前中を過ごしたあと、いよいよ奥さまがお見舞いに登場!
これまでの経過や様子を共有しながら、むくんでしまった僕の手の平、足、腰、首筋をさすってくれる。そんな幸せ時間もまたも束の間、夕方に件のがさつ看護師Sがやってきた。
ストーマパウチを交換と共に外誘導という、便を自分で破棄しなくてもよい機器も設置し直しにきた。

現在僕の便は右のおなかに増設された人工肛門から水溶便というほぼ茶色の水状態にあるものが、術後のせいもあり間断なく出続けている(人工肛門には括約筋がないので自分ではコントロールは出来ない、出たら出っ放しなのだ)。その便を受け止めてくれているパウチ交換をいま行うのだという。それはプロの方が決めたこととして拒むべき事ではなかったが、何もこんなタイミングはないだろうと思う間もなく後々までトラウマになるであろうその出来事は起きる。

身動き出来ない僕の傍らで奥さんも見守る中、便を受け止めるべきストーマパウチを交換していたS看護師さんが声をあげる!「あっ、待って待って待って」「大変大変!」
そうパウチを外している間も水溶便は間断なく出ているのだ、その受け(こぼれてもいいようにパッドを敷くなりの対策)が甘く、僕もシーツもベッドすらも汚物まみれのグッチャグチャ。

取りあえずその場を凌いだS看護師さんではあるが、僕の奥さんに向かって「もうご家族はお帰りいただいていいですよ!」とがなっている。(うん、こんな場面を患者の家族に見せたくないよな、と気持ちは理解出来なくもない)

そしてその後、看護助手と思しきヘルプさんもやってきて、身動き出来ない僕をベッド上で強制的に右へ左へと動かし(その都度激痛)、シーツをかえ、僕を着替えさせ、S看護師さんは汗だくだくになってその作業をやり遂げた。

術後1日目の患者を捕まえて朝から凄まじい扱いだなと思いつつ、奥さまからは手術後は癒着を防ぐ意味でも体を動かすことは悪いことではないのだから、これもまたリハビリの一貫だと前向きに思うといいんじゃない、と励まされたそんな強度最強の術後1日目でした。

まだまだ続くと思います(笑)

2025年10月4日土曜日

闘病日記・その1

さていよいよ入院して参りました。
9月28日(日)。
奥さんに付き添ってもらっての入院です。

場所は14階、窓の外からは中央線(総武線)がよく見える。
ここでしばらく自身の疾患と格闘することになるのだが、このときはまだまだ呑気だったのです。

少し端折りまして9月30日(火)いよいよ手術日当日。
8:30に青いお決まりの手術着に着替え、手術室まで連れられる。手術室前でいくつか問診を済ませ、いざ手術室へ。

やや狭い手術台の上に載せられ、看護師さんやら麻酔科の先生らから「はい、仲山さんこれから麻酔をしますよ、横向いて手を合わせ祈るようなポーズでぐっと屈んでくださいねー」医療関係者の皆さんはどなたもハキハキとしている(見習おう)。
「ごめんねー、背骨の間が短いからもっともっと屈んでちっちゃくなってー!」と背中にゴリゴリと針らしきものが挿入されている感がある(イタイイタイ!と思いながらもガマン)。一通り背中への麻酔の管の挿入が完了すると「はい、次は仰向けになってこれ吸ってくださいねー」といよいよカップ状のものを口に押し当てられ、「あとは深い眠りについていきますよー」とか何とか仰ってたと思う。

手術終了は15:30の予定だった(約7時間)。

それが手術が終わり、ストレッチャーに載せられ、『病室戻りますよ!!ココどこだかわかる??ジュン・テン・ドー!!!』と周りの人が絶叫している。

ストレッチャーが右に左にとグルングルンと動きまくり、頭の中で「吐く吐く!」と思いながら果たして自室の病室へ戻り、看護師さんらが『いま夜の9時!!!!』(今日も渋谷で5時?じゃないよね)。と再び絶叫している。ぼーっとする頭で12時間近く手術をしていたことを知らされた。そのまままた意識が遠のいて、その前後の記憶はこれ以外ほぼほぼない。

あとから看護師さんらに僕が大暴れしたこと、幸い体に装着された管などを抜かなかったことは不幸中の幸いだったけど、もう大変だったのよ、なんて仰っていたことを聞かされた。
そんなこと言ったって記憶がないんだから仕方がない。そりゃそうだ、朝から夜まで強制的に眠らされ、体の中をメスやら何やらで弄り回され、その後は体中に管がいっぱい生やされてんだから。

とにもかくにも手術中のことは記憶にないし、その後のこともよく覚えていない。
でもまずは手術が12時間という長時間に及んだこと以外、目的通りに果たせたことは告げられた。

あとでふと、「ということは関わっていただいたスタッフの方々は残業したということか、お昼はどうしたんだろう?」とかつまらないことばかりが浮かんだ。


僕の大きく腫れてぐだぐだになったS状結腸はものの見事にばっさりと切除され、その上端にある下行結腸と最下部の直腸とが縫い合わされ、そしてS状結腸がべったりと張り付いていた膀胱は一部を切除され、ヌイヌイされたそうだ。

ついでにいえば、おなかの上に小腸を引っ張り出され人工肛門も形成された(右の下腹部に梅干しが出来た)。これで大腸へは何もモノが通らなくなるので、安全に術後の経過を見ることが出来るそうな。ヌイヌイされた膀胱ももちろんそのままではいかんので、膀胱の中にはカテーテルが埋め込まれ、おしっこは強制的に管から対外に排出される。

何より人工肛門が一番ショックではあるが、これが健康面を支えるための最良策なのであろう。

夜の9時にドクターからウチの奥さんにお電話を入れていただき、僕も夜の11時頃にふと目覚め、メソメソと奥さんに電話をした。一番に奥さんの声を聞きたかった。全身麻酔による気道確保により喉も肺もやられていたため、しゃがれた声で聞き取りづらかったとは思うけど、何よりおくさんの声を聞けてほっとした。

明日来てくれるという。「早く来て!」と言ったけど面会時間は限られているし、奥さんも仕事がある、あとで何言ってんだと思ったけど、辛くて辛くて仕方なかったのだ。

以上、まずは12時間に及ぶ手術日当日の一切でした(といってもほぼほぼ記憶がないけどね)。

*ちなみにこれを書いているのは術後4日目の土曜日です。まだまだ書きたいことはあるけど、またゆっくりとその後の経過を随時お知らせしてゆきたいと思っています。