2026年1月10日土曜日

新年10日を過ぎて

2年前くらいに僕が所属するバンドでライブを行った時の写真です。後ろ姿を撮影しているということは他のメンバーさんが撮ってくださったということなのだろう。今の今まで気がつかなかったのです。
自分で言うのもなんだけど画的には良い雰囲気です・笑。

さて新年が明けて10日ほどが経過。
年末年始は創部の痛みに伴い、体調は一進一退。あまりムリもきかないため、あっという間に終わってしまいました。
お仕事も何だか考えること、やらねばいけないことが多く、そのくせ体調が芳しくない日もあるので、グズグズしている間にあっという間に過ぎてしまいました。

しかしそんなある日、朝から体調が良かった為、半年ぶりにまともに電車に乗り、2時間ほどかけ昭島にあるお客様のところまで行ってまいりました。
半年ぶりだったせいか、お訪ねした地域には再開発か何かで多くの家々が立ち並び、風景は一新。きっとあと数年もすれば駅前にはそれなりの店舗なども増え、きっと立派になることでしょう。
それにしても久しぶりの電車旅の心地よかったこと。
今まではあまりの体調不良と、術前・術後の影響(12時間のオペ+一時的ストーマなど)で家と事務所(徒歩3分)と病院にしか行けず。
さらにはそんな状態が自身を塞ぎこませてしまうことで、うっすらうつ状態にありました。きっとどこかおかしかったのだと思います。

なので行き帰りの電車での移動、景色、駅までの歩行などなど、何もかもが新鮮でした。

まだ創部の痛みは残っているため、あと数か月はムリがきかないとは思うけれど、こうして久しぶりのお客様と会い、友人らからいただくメッセージにとても励まされ、家庭以外に自身が戻れる場所があるのだと思わせてくれることが何よりうれしい。

 とはいえ、今日は事務所内でおとなしく保険会社から課せられた「事業計画書」を策定していたものの、いい加減うんざりしてもう放り出していたところです・笑

別に銀行からお金を借りるために、頑張って書かねばならない事業計画書じゃあるまいし、なんでおまいら保険会社に媚を売るがごとくわが社の計画を晒さねばならんのだ、と段々イライラしてきてしまったのです(本当は難しいビジネス用語が多すぎたり、何のことかわからないことがたくさんでピンと来なかったからなんだけどね)。

もちろんそんなことじゃ経営者としてダメなことはわかっているけれど、どうしてもやる気になれませんでした。

そうなのだ、これまでも保険会社さんの中の頭のいい人が考えたことを、代理店にムリヤリ押し付け強要してくるくせに、2~3年もすると「やっぱり違うかな~?」とかいってあっさりその方針や施策を撤回してしまう。
それに振り回された人たちはきっと人生が変わってしまったはずだ。
幸い僕は良くも悪くも頑固なので、納得や得心のいかないことには従わない。テコでも動かない(それをもちろん是とは思ってないけど)。

今回の保険会社の方針はあくまで金融庁の方針に沿い、則っているはずとは思うけど、それだって正解は合ってないようなものと僕は思っている。
「顧客本位の業務運営」にしたって色々な形があるはずで、何もかも画一的にすることじゃあないと思っている。

ここから僕たち(損害保険で活きる人)は様々な選択を迫られると思う。おかげさまでニッチではあるけれど特定のマーケットにおいてご評価をいただいている今を感謝しつつも、しかし時間は有限だ。

僕があと現役でいられる期間は4年とみている。

あとへの託し方を現実的に考えなければと思っています。


2026年1月1日木曜日

謹賀新年2026

あけましておめでとうございます。

ズタボロだった2025年。無事というか取りあえずというか、2026年を自宅で迎えることが出来ました。

家族、友人、医療機関の皆さんの支えのおかげです。本当にありがとうございました。

2026年は先にも振り返りました通り、月並みではありますが「健康第一」にてムリをしない。ライバルがいるわけではないけれど、誰かに追い越されようが、他者と比較されようが、とにかくマイペースを保ち、ゆっくり着実・地道に進んでゆこうと思います。

運良く命を落とさずに済んだ疾患なので、今あるこの幸せ(ごはんを食べれる、排泄もできる、寝返りもうてる、湯船に浸かれる、奥さんと買い物にゆける、ギターも少しだけ弾ける、普通に歩ける、座れる、ネコと遊べる・笑)を大切にしたいと思います。

そしてこの疾患を通して学んだことが、ほんの少しでも他の人の支えになれるよう務めてゆきたいと思います。

そんな2026年、年明けの所感でした。

1年間、どうぞよろしくお願いいたします。

2025年12月31日水曜日

2025年を振り返る


2025年夏以降はずっと病気治療のことばかりだった気がする。夏前は何をしていたのか、あまり記憶がない。

退院を果たし、年末を迎えた今日。
奥様から「今までと同じ生活をしていたらまた同じこと(病気)を繰り返すからね。食生活しかり、お仕事しかり!」

仰る通りです。ぐうの音も出ません。

とはいえそれは僕も自覚していた。
闘病日記でも記述していた通り、今の僕にとって必要な一丁目一番地は仕事上でのストレスを溜めないこと。ストレスの要素となりうるものを見極め、適切な距離をとること。

自分に言い聞かせるなら、それは決して恥ずかしいことではない、と考える。
同じ業界の損保代理店さんA会長からは以前「おかしなヤツらからは逃げていいんだヨ」とアドバイスをいただいた。
そう僕は売られたケンカは買ってしまうのだ。そうしてその対応の結果如何に関わらず、自分自身をひどくキズつけてしまう。百害あって一利なしだ。

そんな2026年を控えどうするか。

大好きな野球例えで言うならば、大ピンチで強打者を迎えたとき、しかし1塁に歩かせることは出来る場面。よく「くさいコースをついていこう、そして四球になったらそれはそれでヨシ」という指示があると思う。
しかしそうしたケースではくさいところをつけずにコースが甘くなり痛打されるということがよくある。
したがってそうした場面ではベンチがはっきりと指示を出すことが大切とされる。
そう歩かせるなら歩かせる(申告敬遠でよき)。勝負するなら絶対に抑える気構えで。

今回僕のケースでは2026年度は致し方ないとして、2027年に向けこのストレスの元とははっきりと縁を切るということを決めておくことが大切だと思う。

何なら2026年6月に施行される「法令改正・監督指針改正」に向けて、当社の軸足を大きく変える必要もあってよいのだと思う。

これまで僕の出身会社さんや縁のあった方々への意地みたいなものでここまで僕なりに頑張ってきてみたけれど、そうしたわだかまりは置いておき、これからは身の丈にあった、ゆったりとした時間を過ごせるような環境づくりをしてゆくことも必要に感じる(最低限の生活は維持しつつ)。

その為にいくつかの方法があると思うけれど、それはおいおい娘婿でもあるR君とよく相談して決めてゆかねばなるまい。

2025年を振り返るといいながら、全然振り返るほどのネタがありませんでした。
半年近くを療養に過ごしていたようなものだしね。

2026年についてはとにかく健康第一でゆこう。お金は二の次でいいでしょう。

2025年12月28日日曜日

(続)闘病日記・その3

絶食明け、重湯スタートにて、現在は五分粥へと移行。
病院食に関しては様々な意見はあると思うが、その患者さんの状況に適した食材、栄養、塩分等を加味し提供下さっていると理解しています。
しかしながら普段、外食やコンビニ等で購入する濃いめの味付けで作られた食事と比較した場合、味覚的には圧倒的に物足りない。
大変申し訳ないことこの上ないのだけど、どのお料理も少し冷めていて、かつ、味付けとしては平坦でぼんやりしている。その割に量だけはそれなりなので完食することが出来ない。

配膳くださる方から「全部食べられました?」と屈託のない笑顔でニコニコ聞かれると本当に心苦しい。。。

そんな絶食明けからおかげ様で体調は特に変わりなく(良い意味で)、手術後の爛れた患部から相変わらず血が滲むが(穴の開いたままのところから、ズルリと内蔵がとび出てくることは今のところない・笑)、咳・くしゃみなどをしない限りは痛みも少なく、現在は患部と体力の回復を待っている状態です。

よって病院側も症状が安定していると判断、2025/12/28(日)の退院を許可下さいました。
予定通り約10日間の入院にて、第2回闘病生活も終了することになりました。

改めてこの2度の入院を経て感じたことは、「もう入院したくない」という強い思いです・笑。
病気を治してほしくてすがった医療機関なのだから、なに言ってるんだというお叱りはともかく、程度の違いはあれどやはり入院+手術の間の辛さは当人でないと計り知れない。
ということはつまり、病気にならないよう努めるしかなく、それは摂生は言うに及ばず、それ以外の要素=自分で言うのも何だけど仕事上でのストレスを極力溜めないこと。
すべては難しいにせよ、ストレス要因となる事との関係性を見直し、決してムリをしないこと。
売上や体面だとかにこだわりすぎるとろくな事はない。
これが今の僕にとって肝要なことだと思っている。


これまで寄り添って下さったドクターH氏に始まり、多くの医師、看護師、検査技師、ありとあらゆる職責の方々のお世話になり、ようやく自身の内蔵系疾患から開放された日を迎えたわけです(油断禁物)。
そして家族や友人らの支え。
本当に大切な人たちに恩返しをせねばと思いを新たにしましたのです。

とはいうものの、残念ながら第3回闘病生活は今春頃、不整脈の根本解決のために「カテーテルアブレーション」なるオペを受けるため、よもやの入院となりそうです(トホホ)。
次回はこれまでの大腸肛門科ではなく、循環器になるのでドクターら関係者も一新。少し緊張感をもって取り組むことになります。

では以上をもちまして(続)闘病日記を終わりとします(あっさり)。

2025年12月26日金曜日

(続)闘病日記・その2

ストーマ閉鎖手術を受け、ベッド上での絶対安静を強いられた土曜日の午後。ぼんやりと失った人口肛門に思いを馳せる(なんちゃって)。

そんなぼんやりした時間も束の間、かつて人口肛門があった場所には15cm四方のガーゼが覆われている。その右おなかのガーゼに覆われた創部を看護師さんが「見せてくださーい」と言っておもむろに剥がしにかかる。
(手術後あるある→→看護師さんは必ず患部を見たがる。もちろん職業意識上のことと理解しているけど、みんながみんな必ず患部を見たがる不思議)

・・・グロい(絶句)

おなかの上に爛れた火山があるような感じ。直径10cmくらいの山が出来ていて、その中心部たる落ち窪んだ火口(約2cmほど)には血が充満し、一部がどろりと流れ出ている。

これは完治まで何ヶ月かかかるだろう。。。というのが正直第一印象。それでも日々その創部の経過を確認下さる医師や医療スタッフさんらはみな口々に「うん、いいね!」とライトな感じでいう。どこがいいのかさっぱりわからないけど、多くの症例を見てきた彼らが言うのだからきっといい方なのだろう。

そんな折、医師達は手術日当日の土曜日から術後5日目の水曜日まで「絶食」するよう言い渡してきた。この食いしん坊の僕に対してである。
まあ、よくよく考えれば前回は切除+吻合した大腸を守るため、その手前に迂回路ともいうべき小腸の人工肛門が造設されたわけ。
今回はその防護壁ともいうべき人工肛門をなくし、本来小腸が大腸に繋がるための通り道が出来たので(吻合箇所)、食べ物が通ればその吻合箇所に負担がかかるのはいわずもがなである。

そんなわけで、術後の処置は特になし。検査も取り立ててなし(採血とレントゲンのみ)。食事もなし。何にもなし。。。

こりゃ困った。1日が平坦過ぎて退屈を通り越して苦痛の域だ。

そんな状況下において追い討ちをかけるように看護師さんが告げる。「仲山さんの手術日に居合わせた研修医がインフルエンザに罹かってしまったので、仲山さんもその対象ね。部屋から出ちゃダメですよ(ダメとは言ってないか(笑)、ドアを全開にしちゃダメね、と言ってたね)」とのこと。

前回もそうだったけれど、入院時には思いがけないことがいくつも起きる。

これらのこと以外にも様々なことが発生し、病棟内の医療スタッフさんらのご苦労は計り知れない。あんまり書いちゃうと類推の恐れがあるからね、控えますヨ。

いずれにせよやはり入院環境は特殊なのだなと感じた術後5日目までの感想でした。

つづく

2025年12月24日水曜日

(続)闘病日記・その1

メリークリスマスです。
さてさて前回のヘビーな手術と、それに伴うオストメイトとしての日々から約3ヶ月、待ちに待った「ストーマ閉鎖手術」の日がやってきました。
もちろんオストメイトとしての日々は人生勉強としてこれまで経験したことのない貴重で大切なものであったし、これからオストメイトとしての人生を送られる方々に寄り添えるようなそんな人間になりたいと思っています。

そんなストーマ=人口肛門、こちらを閉鎖するための手術を行う日がやってきました。
具体的には右のおなかに出していた小腸を改めておなかの中に戻すという手術です(ざっくり過ぎだけど、全部説明するのは骨が折れるのでお許しください)。

そんなストーマ閉鎖術でありますが、事前勉強はしていたもののドクターからの諸注意を受ける中で特にビックリしてしまったのが「人工肛門が出ていたところ、おなかの穴は塞がない」というもの。
最初は「えっ?」と聞き返してしまいました。
ドクター曰わく「人の体とは不思議なもので、穴が開いたところから肉芽が生えてきて、そのうち塞がるんですよ~」と仰る。そんなものなんだと思いつつも、万一そこから内臓がズル~リと飛び出たらどうするの?と内心ビクついておりました。

そして手術当日(2025年12月20日・土)を迎えます。
3ヶ月前も同じ病院で手術をしているため、落ち着いたものです。それがかえって良くないということは後々になって感じたこととなります。
それはさておき前回同様、朝一番の9時、お約束の青色の手術着に着替え、介助の方に連れられ手術室へと向かいます。
簡単な問診を済ませ、手術台へ(ふむふむこの光景は知っているぞ)。背中へ麻酔の針をゴリゴリ入れられるかと身構えていたところ、いきなりマスクを口元へ与えられ、目がうろんとしてきた。今回の麻酔はこの口元マスクからのみなのだな。と思うや否や、意識が戻ったときには、「仲山さ~ん、手術終わったよ~。」と肩をトントンされる。何度もトントンされる。しつこくトントンされる。
しかしトントンに応えたいのに口は動かない。
そして2~3分ほど経ったころ、ようやく『あ・り・が・とう、、、、ござ~いまし~た』と応答に成功する。
手術部位はもちろん見られる状態ではないが、手術の完了は3ヵ月もの間お世話になった「ストーマ×人工肛門」の機能が終了したことを意味するのです。そしてこのまま順調にいけば、従来通り食べ物は口→食道→胃→小腸→大腸を経て、肛門から便となって排出されるはずなのです。

手術時間はおよそ3時間弱、前回の12時間にも及ぶ大手術と比べれば負担は少なく、今回もまた医師や医療スタッフの皆さんに感謝しかありません。

リカバリー室での小1時間を経て、病室へ戻る(ちなみに隣には小学生と思しき男の子がやはり術後だろうか、痛みと恐らく不安感などで泣きじゃくっている。わかるぞ!がんばれ!)。

前回吐きそうになったストレッチャーでの病室への移動。今回はストレッチャーの上で酔わないよう、意識をしっかり保ち過ごします。
そしてようやく病室へ戻り、ベッド上で体の状況をなにげに確認。

・点滴の管はある
・心電計などのうじゃうじゃもある
・おしっこの管もある
・背中の管はない!
・排液管理のためのおなかのドレーンもない!
・そしてストーマパウチももちろんない!

前回の手術後と比べれば圧倒的な身軽さで手術は終了となったのです。

冒頭述べました待ちに待ったストーマ閉鎖術。
あっけないほどカンタンに3か月間に及ぶストーマとの共同生活が終わりを告げました。

あのおなかに生えた梅干のような、あるいは別の生き物のようにうねうねと動く人工肛門。
そして僕の意志とは一切無関係に胃で消化した食べ物をどろどろの状態のまま昼夜問わずせっせと排出する彼。
さらには3日に1回のパウチ交換の際、人口肛門の彼と共にその周囲の赤く腫れ痛んだ皮膚を目の当たりにする日々。
などなど。。などなど。。。。

しかし何といっても僕の体を守るために造設された機関の一つである人工肛門くん。
さようなら、本当にありがとう。

つづく

2025年12月13日土曜日

(続)闘病日記・そのゼロ

 

闘病日記・続編を開始いたします(大したことないけど)。

(復習)2025年8月より本格的に患っていました「結腸膀胱瘻」。
この疾患の治療の為、順天堂医院の方々のご協力により12時間超に及ぶ手術を受けました。
大腸をばっさり切除し、膀胱も一部を切除し縫合。そして人工肛門の造設という一連の治療によりこの疾患そのものは根治したものと思っています(今のところ)。

(さて本編)この12月末をもって術後3カ月近くになる僕は、前回の手術にて大腸を保護するために一時的に造設された人工肛門を閉鎖するという手術を受ける予定です。

人口肛門による日常生活の不自由極まりない日々により(個人の感想です)、毎日カレンダーを眺めては、その手術を受ける日を指折り数えて待っていたのです。

しかしいよいよその手術日が間近になることで逆に一抹の寂しさを感じているような。。。「ストーマ・ロス」とも言えそうなそんな気の迷いも感じています(イヤ決して違う、断じて違うと言い聞かせる)。

とにかくも12月に入り、入院+手術前恒例の検査漬けの日々が始まったわけですが、これがなかなか一筋縄ではいきません。
特に今回、心電図の検査を行ったところ、いつもの僕であればささっと終わって特に問題もないはずが、こともあろうに「不整脈」が出ているとのこと。

それもちょっとやそっとではない波形だったのか、現場の技師さんらは大慌て。
複数の技師さんが何度も機器を見まわし、さらに幾度も計測をして「いやいや、やっぱりこれはちょっとまずくない?仲山さん何ともない??
以降の検査は中止して至急外来に行きましょうね」とか何とか。僕自身はすこぶる元気だったため、部屋の陰で技師さんらが「きっとこの人はこの状態がいつもだから、普通になっちゃってて何にも感じてないんだよ」と言われる始末。(ひどいな、もう~(笑))

その後緊急的な枠かなんかよくはわからないけれど、予約で一杯の循環器のドクターさんの診察を受けさせていただくことになりました(感謝です)。

その循環器のドクターさん曰く、「やはりこの波形は尋常じゃないから本来なら早めに入院してもらってカテーテルアブレーションのオペを受けてもらって治さないとダメなやつよ。
特に狭心症を患っていて、前回手術のときには血栓も見つかって、そして今回は不整脈でしょ。三拍子揃っちゃってるよ~」と静かに告知するドクター。よもや冗談でも言っているのか?と思ったものです。。(最近順天堂医院の医療スタッフさんからやけにイジられることが多く、僕ってそういうタイプだったっけ?と)

しかし病院では決して自己主張しない僕ではあるけれど、人口肛門の閉鎖手術だけは何がなんでも行っていただきたい!そんな思いを涙目で訴えた(大げさ、そこまでじゃあない)。

そんな思いを汲んでいただけたかどうか、循環器のドクターさんも「仕方ないね、薬で良くなるか見てみましょうか、まあストーマの閉鎖術くらいなら平気かな~」とのことにて一安心。とはいえその日はホルター心電図(24時間心電計を付けっぱなし)を装着させられ、僕の上半身にはストーマパウチやら心電計やらで、まるで改造人間、サイボーグのようなありさまで帰宅したわけです。

一方肝心要の大腸肛門外科の主治医の先生にも即座に情報共有いただき、「技師さん達もプライドを持ってやっているからこれらのことは尊重してあげてね」と。もちろん文句を言うつもりなどこれっぱかしもないため、こちらも一安心。

関係する医療スタッフさんの気が変わらぬ内に残りの検査と入院予約を行い、12月下旬、人口肛門の閉鎖手術を受けるべく準備をするのです。

フフン!

2025年12月12日金曜日

オストメイトとしての日々を振り返る


今日は風が強いだろうか。
事務所の窓が風でガタガタ響き、仕事をしていても心なしか落ち着かない。東北方面で何度か発生している地震のニュースもとても心配だ。。。

さて昨日(12/11)は「術前外来」という、手術を控えての麻酔科、口腔外科、入院前の諸注意などの診察・説明を受けさせていただきました。ついでに不整脈が疑われた循環器内科の診察も受けて参りました(こちらは後日、2月頃より本格的に治療に入る予定です)。おかげ様で順天堂医院さんに関しては様々なことの勝手にすっかり慣れてしまった(笑)。そして今のところ突発的なことがない限り、月末に再度入院+手術を行うこととなりました。

そこで改めてこの3ヵ月弱にわたるオストメイト(一時的人工肛門/回腸ストーマ)としての日々を振り返ってみようと思います(内容説明は控えます)。

①回腸ストーマを造設したことで、大腸にモノが通らないせいか、またはそもそもの疾患が手術により根治したことによる影響かはわからないけれど、とにかく腹痛が皆無になりました。
おかげ様で食いしん坊な僕は奥さんが作ってくれるごはんを毎日おなか一杯に食べられる幸せをかみしめています。

②一方、回腸ストーマから排出される水様便・泥状便は入院中と変わらず大量で、僕の体はただの食糧通過管と化しているのではないかと思うほど。おかげで1日に何度トイレに便を廃棄していることだろう、恐らく20回は下らないと思う。そのせいで外出は憚られる為、不自由極まりなかった(もちろん外出先でトイレに行けばよい話なのだけど、そういう問題ではなかった)。

③上記同様の理由とともに、外出中、万一ストーマパウチに不測の漏えい事故が起きたらと想像するとそれは恐怖でしかなかった。よってよほどのことがない限り長時間の外出は控え、かつ電車に乗ることもせずにいる。
(ついでに言えばストーマから排出されるガスの音も気になり、電車内ではいつもそわそわし通しだった)

④ストーマパウチの接地面、右腹部・皮膚の肌荒れもかなり悩みの種だった。回腸ストーマの特性として、このアルカリ性の水様便はどうしても皮膚に付着し、肌荒れの原因となってしまう(今のスト-マパウチはとても良く出来ているけれど、完全に防ぎきれるものではなかった)。
この真っ赤にただれてしまった皮膚のヒリヒリは当初痛くて痛くて仕方なく、看護師の奥さんのケアで現在はだいぶ良くなったものの、もしこれが永遠に続くかと思うと絶望を覚えた。

⑤ストーマパウチの交換は3日に1度としていたのだけど、その交換時には改めて自身のストーマ(梅干しみたいな子)を直視することになる。
少しだけ面白いのは、このストーマは右のおなかにあるのだけど、パウチを外した途端、急にウネウネと上へ下へ、右へ左へと勝手に動き、時に開口部がクワッ!と開き、パウチを交換している最中にも関わらず容赦なく便を放出する。
まるで生き物であり、結果この3ヵ月間この子に慣れることは出来ずにいた。。。
もちろん忌むべきものというわけではなく、いわゆる粘膜の塊なので常におそるおそるという感じで接していました。

多くの方が身体的事情を抱えストーマを造設して以来、このことを克服し、きっと前向きに生きていらっしゃる(と思う)。
永久ストーマと一時的ストーマではもしかして心の持ちようや、覚悟が異なるのかもしれない。それを差し引いても僕はオストメイトとしての日々が辛かった(まだ終わったわけではないけれど)。
その生活に良い点もあったけれど、それよりも日々の生活の質が下がること、自身のメンタルのステ振りにこのストーマ部分が50%以上持っていかれることが本当に厳しかった。これも辛さの要因のひとつと思う(他のことを考えにくいのだ)。

世の中に多くのオストメイトの方がいることを知りました。
専用のトイレがまだまだ少ないことも知りました。
自分は人工肛門なんだよ、とかつて告白してくださったお客様に対し正直ぴんと来ていなかったことも知りました。
この経験は自分の体をもって実体験として思い知り、今後オストメイトの方に対し少しでも寄り添うことが出来ると自信をもって言える。何が出来るかはこれから考えたいけれど、この経験を忘れないよう、ブログに書き記しました次第です。(面白くなくてごめんね~)

2025年11月23日日曜日

漏えい事故/オストメイト

 

漏えい事故というのだそうだ。

約2ヶ月前、手術を控えていた頃、オストメイトになることを半ば覚悟していた僕は、あれこれと悲観的な想像を中心に各種文献や失敗談、またはそれを乗り越えられた方々の貴重なコラムなどを読み漁っていた。

そんな経験談の中、やはりオストメイトとしての一番の恐怖はストーマパウチからの便の漏えいではないだろうか。そう、腹部に装着したストーマパウチが身体から外れるなどして、中に蓄積していた便が思いも寄らぬ場所で漏れ出、周囲に便と悪臭を撒き散らしてしまう阿鼻叫喚の地獄絵図のことだ。

特に公共交通機関などでは、きっと電車内の女性の多くがいかめしい顔つきで口元に手をやり、蜘蛛の子を散らすようにして車両を移動。その他の方々は「ん?くせーなー」とかブツブツ言いながらおならをした犯人を探すべくキョロキョロし出すのではないだろうか。

そんな電車内での状況を想像しては恐怖心が募るばかりである。それを証拠に僕は退院後既に1ヶ月も経つというのにいまだに電車に乗れていない。。。

特にイレオストミー(回腸ストーマ)である僕は、その便の性状として常に下痢状態である。かつ30分とそれら便が出ていないことはない。ストーマからは常に液状であったり、泥状のものが出ているため、気が気ではない。

そんな恐怖の象徴たるストーマパウチからの便の漏えいがついに起きてしまった。

つい数日前の朝一番(7時頃)、事務所内で内務作業用のズボン(チノパンです)に履き替えようと、スーツのズボンを脱ぎ脱ぎハンガーを手に取った瞬間のこと。パチンと音を立て、手に持っていたハンガーと右腹部に装着しているストーマパウチが触れ合い、引っ掛かった。

ん?危ない危ない、なんだなんだと思うや否や、紛うことのなきあの香り。なんでいま僕の周りに便の匂いがするのだろうと思うと同時に、手と服の一部に茶色の便が付着していることに気が付いた。

訳も分からずパウチの表と裏を念入りに調べていると、ちょうど便を排出させる出口付近のビニール部分が約1㎠程度、サイコロ位の大きさの穴が開き、そこから既に溜まっていた便が漏れ出始めていた。

絶望する気持ちと同時にその漏えい事故の被害を食い止めるべく取り急ぎ穴の開いた箇所をガムテープで塞ぐ。そしてトイレへと向かい、応急処置を施した。

あとは念のために事務所内のあちこちを消毒、汚れた衣服を取り替えるべく、一度自宅へと戻り、交換用のパウチセットを手に再び事務所へ。

事務所内の出来事だったことを不幸中の幸いとして評価すべきなのか、そもそも着替えなどしなければこんなことは起きなかったのか。

とにかくもそのときの心情としては一言「悲しい。。。」である

オストメイトになってしまったことは仕方がない。それでも自らの排泄物の一部をパンツの中でならまだしも、シャツやズボンや事務所の床にこぼして、それをいそいそと掃除している僕。

多くのオストメイトの方には申し訳ないけれど(自分もそうだから)、やはり僕は健常者ではないのだ、ということを痛感させられたのです。

オストメイトであることを受け入れ、一時的とはいえストーマと共に強くありたいとは思っていたけれど、とうとうここまで踏ん張ってきた僕の心がポキンと折れた瞬間、出来事でした。

とはいえまだまだ続くオストメイト生活。このオストメイト生活を恨んでも仕方がないし、いちいち落ち込んでいるヒマはないのだ。あるがままを受け入れ、平常心でいること。今はそれだけで十分と言い聞かせています。

2025年11月19日水曜日

雑記(闘病日記・その3.8くらい/相原コージさんへの感謝)


退院してから1カ月と少しが経過しました。おなかのあちこちに開いていたキズの痛みはほとんど治まり(というよりすごくかゆい!)、ストマ部分のみが相変わらずストレスである以外はまずまず順調に(否、ゆっくりと)過ごしていると思います。

その2週間ほどの入院中、かなりメンタルはやられていたのだと思います。そんな中救いとなったのが、僕の好きなマンガ家のひとり相原コージさんの作品で「うつ病になってマンガが描けなくなりました(全3巻)」です。

疾患の種類は違えど、入院前~入院中など、相原さんが体感した日々の心の揺れ動きにとても共感したのです。

当時の僕はやはりどこかおかしかったのでしょう。普段読んでいるジャンププラスもX(旧ツイッター)も新聞やTVもまったく頭に入ってこず、さらには時々入ってくる仕事のメールもほとんど手につかずにいました(もちろん入院中だからロクなことは出来ないけど)。

そんな中、術後2日目くらいになにげに読んでみた同作品に引き込まれ、入院中おそらく3往復くらい読んだのではないかと思います。
同書ではマンガが描けなくなってしまった相原さんがうつ病で闘病中、その何ということはない日常の1場面を丁寧に描き、そしてその描写に僕は「わかる!わかる!」と大きく頷いていました。
そしてそのあまりに細かすぎる描写に対し、相原さんもこんな思いをしているのだから、僕にもきっとこの日々・時間を耐えられるはずだと勇気をもらっていました(本当はそうした類の作品ではないと思うけど・笑)。

ほんのささいなことではあったけれど、退院したらこのことを書き記しておこうと思っていたのですが、ものの見事に忘れていました。。。

相原コージさん。「コージ苑」「かってにシロクマ」以来、ずっと応援しています。本当にありがとうございました。
また年末~年始に予定している再入院の際は必ず読むことでしょう。

*病院食はどこも似たようなものでした




2025年11月14日金曜日

父の命日

今日(11/14)は亡き父の誕生日であり、命日でもある。
10年以上前に亡くなったそんな父のことは実は大キライであった。

 新潟出身の父は家では比較的寡黙であり、しかし仕事(電器店を経営)ではいつもニガイ顔をして、新潟弁で怒鳴りまくっているという印象を強く覚えている。
また僕に対しては厳格な父親という印象があり、行儀や振る舞いなどについて、(ガミガミというよりは)怖い顔で一言強い口調で叱責・注意をする。なのでいつも僕は父から一定の距離を取り出来るだけ関わらないように接していた。

さらには時々デリカシーのない言動も発する。「根性なし!」「情けない!」などなど。小さい頃はそうした父の振る舞いや言動にいつも傷つき、ビクビクしていたと思う。

そんな厳格で僕にとってはとても怖かった父ではあるが、僕が19の頃(父は46才頃だ)家業だった電器店を潰してしまった(当時2~3店舗あったろうか)。
経緯や事情はともかくも父は借金をこさえ、僕は当時たまたま親とは同居していたため、江戸川区松江のアパートから正月早々の1月2日、夜逃げをすることとなった。。。
・・・夜、深刻な顔でなにごとかを相談する父母。そして僕のことを呼びつけ「ヒロ(僕のこと)、夜逃げするぞ。お父さんとお母さんとは別々だ」。こんな感じだったと思う。

僕は父母と離れ江戸川区東新小岩のぼろアパートに一人暮らしとなり、
父母は行方不明となった。

実はそのときが初めて父からの呪縛のようなものから解放された瞬間だったかもしれない。
甚だ不謹慎ではあるが、厳格で何もかも自分が正しいといった面持ちの父が失脚し、こともあろうに夜逃げなどという無責任な振る舞いをしたことで、僕の気持ちは晴れ晴れとしたのかもしれない。

それから数か月間、当然僕はお金がないためトラックの運転手やら、当時比較的お金になりそうなアルバイトをせっせとこなし生活の維持を図った。

一方、紆余曲折の末失踪していた父母は発見され、最終的に破産宣告を受けたと思う。お金を借りていた方々には申し訳ないと思う。
その頃の記憶は朧気で、父母が隠れて住んでいた家の家財道具には赤い紙(差し押さえ)のようなものが貼られていた気がする。でも父母と離れ、懸命に自立を図っていた僕にとっては正直どうでもよかったのだと思う。

そんな父であるが、その一件以降は穏やかというか、僕のことをある程度認め、適切な距離感で接し合うことが出来たと思う。(また仕事を見つけ父なりに頑張っていたことと思う)

また僕の結婚後はガラにもなく、可愛い置き時計を送ってくれたり、時々父母の暮らす家に寄っては母と穏やかに過ごしている様子も見受けた(実際はわからないけど)。

その後70才頃だったか、病気が見つかり闘病中はさぞ苦しかったと思う。何もしてあげられなかったけれど、好き放題して74年の人生を過ごしてきた父にとっては良き人生だったのだろうと思う。

毎年、誕生日であり命日でもあるその覚えやすい11月14日を迎えるとそんな大嫌いだった父のことを強烈に思い出すのです。

2025年11月8日土曜日

術後せん妄(闘病日記・その1.5)

術後せん妄なるものをご存知だろうか。
詳しい定義は知らないけれど、長時間の手術や全身麻酔などの影響で幻覚を見たり、暴れてしまったりする忘我状態と理解しています(違っていたらごめん)。

僕も手術後は大暴れしたようで(闘病日記・その1)、もう一つ、入院中、それも術後1週間くらい続いた状態について書き記しておこうと思います(これはお聞かせするというより、もう一度全身麻酔による再手術+再入院するので自身への備忘録として)。

当時、入院中・手術後の病室内は暑く、かつベッド上で身動きがしづらい状態にあったことも要因として毎日なかなか眠れずにいました。それと夜中、1時間ごとかどうか看護師さんが点滴の様子などを見に来てくださるので、そのたび看護師さんの持っているスマホのライトでピカーと照らされるのでせっかく眠りに落ちかけても起きてしまうのです(文句言ってないです)。

そんな状態もあり、昼夜問わず少しうとうとと眠くなり目を瞑ると一瞬で異様な光景、それも夢なのかわからない幻覚的なものを見るようになったのです。それも今まで経験したこともない、見たこともないような異国の風景(それも中東などの寺院的なもの)の中で過ごしているような、少し恐怖心に駆られる異様な光景を見ることが多かったのです。

そしてそんな異様な世界から、はっと目を覚ますとだいたい10分も経っていないことが多く、その異様な光景について記憶を辿るも、やはり過去に一度たりと見たこともない映像でした。

あとでふとこれは術後せん妄の影響・一つなのかな?と感じたけれど、またドクターや看護師さんらにいらんこと言うと騒ぎになってしまうので奥さん以外には黙っていました。

術後1週間も過ぎると徐々にその異様な光景・映像を見ることもなくなり、自身の守備範囲ともいうべき平穏な夢を見ることが多くなりました。ようやくほっとしたことを覚えています。

また次回再入院の際に全身麻酔を行う予定なので、心の準備を整えておこうと思っています。