2025年10月17日金曜日

壊れたもの

今回、家族や友人、お客様など多くのご関係者に迷惑をかけながら私自身の抱える疾患の治療を行いました。心も身体も完治まではまだまだ時間がかかるのだろうという印象です。

特に今の自身の状況(オストメイト)を受け入れる為に、心が壊れないよう保つだけでも精一杯なのです。
退院後、ゆっくり仕事に関わってはいるものの、少しでもストレスがかかることがあるだけで、危うく均衡を保っている心がガラガラと壊れそうで怖いのです。

この疾患の原因・要因は様々なれど、その一つに自身の仕事があると思う。元々メンタルは図太い方ではなく、それどころか繊細だと自認している。そんな日々において、自身がこれ以上壊れないよう、その仕事への関わりに一定の距離を置き、スタッフさんや周囲の関係皆さんの協力を仰ぎながら進めています。

今まではその強すぎる責任感のせいですべて抱え込んで頑張らなきゃ!とやっていたけれど、しかし今、周囲の人の力を借りてみるとかえってスムーズで、逆にその方が連携の在り方としてはいいんじゃないかとさえ感じ始めています。

そんな今、家へ帰るたびに看護師でもある奥さんへ、その日1日にあったことを話してみるのだけど(なんか子どもみたい)、特に自分の無能さ(出来ないことが多すぎる)を痛感している日などは、「だっておなか開いて12時間もの大手術をして、おまけにストーマつけて2週間も入院してたんだよ。普通の人は会社なんかしばらく休んでるんだからね」と慰められる。
そんな言葉に甘えていいかどうかはわからないけれど、“そりゃそうか、まだそんなに頑張らなくていいのか、もう少し自分に優しくしていいのか”と納得させています。

ふと、今の自分はメンタルか?と疑うときもあるけれど、とにかくも壊れてしまった自分がこれ以上壊れないよう、少しだけ自分を労わろうと思う退院後1週間の今日この頃でした。





2025年10月15日水曜日

闘病日記・その4

バカづらですみません。著者近影です(笑)。
闘病前78Kg、退院後65Kg→13Kgのダイエットとなりました次第です。

そう先日の日曜日(10/12)に退院して参りました。体のあちこちに生えていた管はすっかり除去(ストマは別)、しかし体のあちこちは手術のキズ痕だらけで正直痛々しく、実際傷跡はイタイ。。。

それにしてもあれほど恋焦がれていた帰宅だったのに、久しぶりに帰ってきて感じたのは、病院内は守られているんだな~という感覚でした。何の不安もなく、周りは医療従事者さんと病人だらけ。そして患者にとっては時間がゆっくりと流れている(もの凄くヒマだし、指示されたことだけを行うのでラク)。
それが自宅へ帰ってきて少しの用がありヨボヨボと近所を歩いていると、社会全体、人もモノも物凄いスピードで流れている。正直怖くなってしまった。

しかしおかげ様で今回の僕の傷病=結腸膀胱瘻に関してはとりあえず手術は成功、基本的には根治といってよいのではないかと思います(S状結腸の全切除+下行結腸も半分切除、横行結腸を腹膜から外し、直腸と半分になった下行結腸をT字に吻合。膀胱を一部切除しこちらは縫合、大腸を保護するために一時的な回腸ストーマを増設、だそうな)。

入院中、家族や友人、お客様にはご迷惑とご心配をおかけ致しました。とりわけ奥さんには本当に感謝している。ここまで僕が心の奥底まで奥さんに依存しているとは思わなかったけど、本当に頼りになったし、癒された。

ただ一時的とはいえ、オストメイトとなった僕は今、外出が怖い。

万一、外出中ストーマパウチから便が漏れてしまったら、電車の中で意図せずそうした事故が起きてしまったらと思うと恐怖しかない。したがってしばらくこの生活に慣れるまでは家と事務所の往復(徒歩3分)しかムリかもしれない。

一方、入院中にかかった費用は僕にとっては莫大だ。職性としてそれなりに保険には入っているが全然足りない。高額療養制度のお世話になりつつ、差額ベッド費用などは丸々実費だから仕方がない。こんなときやはり一生に何度かしかないとはいえ、民間保険の有難みを痛感(その分保険料も払っているけど)。

今後、順調に回復が進めば、年明けにストーマの閉鎖手術を受ける為、またまた2週間ほど入院することになるのでしょう。あと3~4ヵ月とはいえ、この不自由極まりない生活に慣れ、またこの経験を活かし、多少でも人のお役に立てればよいと思っています。

これにて闘病日記第1弾につきましては以上をもって終了とさせていただきます。

今後ともよろしくお願いいたします。

2025年10月10日金曜日

闘病日記・その3

術後2日目。
散々だった術後1日目を終え、いよいよこれから回復に向けて動き出さねばならない。というのも術後2日目についてくれた看護師さんがまだ2年目というのに本当に明るくてしっかり、説明も上手で良い方だったのです。(仮称Mさんとしよう)

そのM看護師さんが「ベッドから離れ、どんどんイスに座り、出来るだけ歩くんですよー!」と明るくリードしてくれる。その明るさに触発され、頑張って起き上がってみる。とすると、そのM看護師さんが「やったー!すごーい!」と褒めてくれるのだ(僕は褒められると伸びるタイプなのだ)。
そんな最中、その日の担当ドクターが背中の麻酔の管を取ってあげよう、とこれまた嬉しい知らせ。

術後3日目にはごはんも開始。明らかに僕の中のメンタルが3段階くらいあがった気がした。そう術後1日目の散々な1日と比較すると段違いだ。やはり病は気からというのは本当だと思ったし、お気に入りのハードロックをイヤホンで爆音にして聴いてみると、案の定やはり気分がかなり上がった。そして頑張って術後4日目には病棟内にある「屋上庭園」を散歩してみた。・・・気持ちいい!さらにはこっそり病棟内のローソンさんに寄ってマチカフェコーヒーも買って飲んだりした(もちろん2口くらいでやめた)。

この後もこんな気持ちの上がる良いことばかりとは限らず、ある夜中には当直の看護師さんのスキル不足により再度汚物まみれになったり(おまけに謝りもせず不機嫌そうだったことが人として残念に映った)、またはちょっと偉そうで横柄なドクターさんや一部看護師さんの雑な振る舞いによりイヤな気分になったり(きっと悪気はないのだと思う、虫の居所が悪かっただけさ)、まあまあ色々なことはあったが、それでも関わって下さる多くの医療スタッフさんと我が奥様の看護の甲斐あって自身を保ち続けた。

しかしそれも束の間、術後6日目。悪夢が襲う。

そう「腸閉塞(イレウス)」になってしまった。
夜中じゅう、おなかの中を行き場を失った何かが右に左に、上へ下へと動き回る。その都度捻じ切られるような痛みに顔をしかめ、こんな痛みに耐えるくらいならもう死んでしまった方がいいんじゃないかとベッドの上で身悶えしながら思ってしまった。

そして翌朝、ドクターに報告が為され、食事は中止。入院計画の見直しを迫られ、原因を特定する作業に移るのだという。
そんな術後6日目の悪夢の24時間を過ごした次の夜(術後7日目)。何かおなかの様子が違う、軽くなったようなと思う矢先に急に便が出始めた。
おなかの痛みはあるもののドバドバと便が出てきたのだ(もちろん人工肛門からね)。これってもしかしてドクターの1人が可能性として挙げていた「下痢止めの効き過ぎ」だったのでは?と訝しむ。

実は僕もそんな予感がしていた。元々クスリが効きやすい体質ゆえ、(僕にとっては)処方量が多すぎたのだろう。それはもちろん結果論に過ぎないので誰を責めるもないのだけれど、こんな12時間もの大手術をした人に対して、便の排出量を抑制するだけとはいえ、もう少し慎重さが必要だったのではないか、と偉そうに思ってしまった。

そんなこんなで、背中の管、心電計、おなかの管、尿の管と次々に外れていく。通りかかったドクターも「随分身軽になったね~」と声をかけてくれる。

術後わずか1週間で、痛みに身動きすら出来ず、ベッド上でイモムシかのごとく“のそのそ”していた男がシャンとしてきた。

特に一部を切除され、ヌイヌイされた膀胱もまずまず元気のようで、たまに血も混じるけど今までの糞尿まみれのおしっことは異なり、きれいな薄黄色になってきた。

さらには切除されたS状結腸の代わりにつなぎ合わされた直腸と下行結腸の様子も大腸カメラで確認。キレイな状態で健やかに僕のおなかの中で生き続けてくれていたようだ。

冒頭にご紹介した元気で明るい「M看護師」さんが何度か担当としてついてくれ、日頃の看護はもちろん、ストーマパウチ交換のアドバイス含め、支えとなってくれ、あとは点滴を外すのみとなったのです(Mさん以外にも印象に残る看護師さんはたくさんいらっしゃった。病棟内看護師さんの仕事ぶりには本当に頭が下がりました)。

術後2日目から術後10日目まで、ずいぶん駆け足で書いてしまったけど、ここまであまりに予測不能な事柄が多く、メンタルも激しく上へ下へ。当初1ヶ月の入院と告げられていたのだけど、間もなく退院も視野に入って参りました。

というわけで次回は1回目の入院編の結びに移りたいと思っています(年明けに再入院するので闘病生活はまだまだ続きますゆえ)。

2025年10月5日日曜日

闘病日記・その2

<手術明け翌朝>

・右手指先 酸素濃度を計るやつ

・胸周り うじゃうじゃと線だらけの心電計

・左腕 点滴の管

・尿道 おしっこを外に出すためのカテーテルが生えてる

・背中 麻酔の管(見えないからよくわからない)

・左腹部 術後の排液観察のためのドレーンが刺さってる

・右腹部 ストーマ(人工肛門、便の出口)

・下腹部 あちこちに穴が開いていてシールが貼ってある

もう右にも左にも動けず、自分の体とは思えないような有り様にまたも泣きそうになってしまう。そんな様子を見にきた男性の看護師さんが「必ず一つずつ外れますからね」と励ましてくれる。そんなちょっとした優しい言葉が嬉しい。

また看護学校の学生さんが研修のために僕につかせてほしいとの申し出が事前にあった為、その日の朝方、順天堂大学看護学校の先生と学生さんがやってきた。学生さんはともかく、50才前後と思しき女性看護師の先生はさすがに百戦錬磨。僕が今してほしいことを先回りしてくれる。前日よりベッド上でほぼ身動き出来ていなかった僕の腰に手を差し入れ、サスサスとずっとさすってくれ続けたことだ。ほんのこうした振る舞いがホントに嬉しかった。

こんな苦痛極まりない中での幸せ時間も束の間、朝一番から担当のがさつ看護師(仮称S看護師としよう)が「造影剤を使用したCTを撮るんで今から行きますよ」とこともなげに告げる。

『は?いま??夕方て話だったよ』と反論する暇も与えられないまま、あれよあれよという間に車いすにくくりつけられ、撮影室のある階まで移動。エレベーターやら段差やら各所を通過する度に痛む身体中が悲鳴をあげる(映画・ミザリーのポール・シェルダンのような気持ちになった)。
ようやくCT室の前に到着したものの、そこには外来患者さんも普通にいらっしゃるため、管だらけの僕をみて気の毒そうな視線を向けてくる。

いよいよ順番が回ってきていつものCT撮影台に載せ換えられるのだが、腹腔鏡の手術痕の影響などもあり腹筋を使えない僕のことを技師さんら(それも女性が多い)が懸命に支え、撮影台に移してくださった。そこでも痛くていたくて「ん”ーーー!」という呻き声をあげてしまう。撮影終了時にも女性技師さんの肩を思い切りつかんで起きるような有り様にホントに申し訳なさすぎだった(女性技師さんの肩にはきっと僕の手痣がついたことだろう)。

そんな拷問のような午前中を過ごしたあと、いよいよ奥さまがお見舞いに登場!
これまでの経過や様子を共有しながら、むくんでしまった僕の手の平、足、腰、首筋をさすってくれる。そんな幸せ時間もまたも束の間、夕方に件のがさつ看護師Sがやってきた。
ストーマパウチを交換と共に外誘導という、便を自分で破棄しなくてもよい機器も設置し直しにきた。

現在僕の便は右のおなかに増設された人工肛門から水溶便というほぼ茶色の水状態にあるものが、術後のせいもあり間断なく出続けている(人工肛門には括約筋がないので自分ではコントロールは出来ない、出たら出っ放しなのだ)。その便を受け止めてくれているパウチ交換をいま行うのだという。それはプロの方が決めたこととして拒むべき事ではなかったが、何もこんなタイミングはないだろうと思う間もなく後々までトラウマになるであろうその出来事は起きる。

身動き出来ない僕の傍らで奥さんも見守る中、便を受け止めるべきストーマパウチを交換していたS看護師さんが声をあげる!「あっ、待って待って待って」「大変大変!」
そうパウチを外している間も水溶便は間断なく出ているのだ、その受け(こぼれてもいいようにパッドを敷くなりの対策)が甘く、僕もシーツもベッドすらも汚物まみれのグッチャグチャ。

取りあえずその場を凌いだS看護師さんではあるが、僕の奥さんに向かって「もうご家族はお帰りいただいていいですよ!」とがなっている。(うん、こんな場面を患者の家族に見せたくないよな、と気持ちは理解出来なくもない)

そしてその後、看護助手と思しきヘルプさんもやってきて、身動き出来ない僕をベッド上で強制的に右へ左へと動かし(その都度激痛)、シーツをかえ、僕を着替えさせ、S看護師さんは汗だくだくになってその作業をやり遂げた。

術後1日目の患者を捕まえて朝から凄まじい扱いだなと思いつつ、奥さまからは手術後は癒着を防ぐ意味でも体を動かすことは悪いことではないのだから、これもまたリハビリの一貫だと前向きに思うといいんじゃない、と励まされたそんな強度最強の術後1日目でした。

まだまだ続くと思います(笑)

2025年10月4日土曜日

闘病日記・その1

さていよいよ入院して参りました。
9月28日(日)。
奥さんに付き添ってもらっての入院です。

場所は14階、窓の外からは中央線(総武線)がよく見える。
ここでしばらく自身の疾患と格闘することになるのだが、このときはまだまだ呑気だったのです。

少し端折りまして9月30日(火)いよいよ手術日当日。
8:30に青いお決まりの手術着に着替え、手術室まで連れられる。手術室前でいくつか問診を済ませ、いざ手術室へ。

やや狭い手術台の上に載せられ、看護師さんやら麻酔科の先生らから「はい、仲山さんこれから麻酔をしますよ、横向いて手を合わせ祈るようなポーズでぐっと屈んでくださいねー」医療関係者の皆さんはどなたもハキハキとしている(見習おう)。
「ごめんねー、背骨の間が短いからもっともっと屈んでちっちゃくなってー!」と背中にゴリゴリと針らしきものが挿入されている感がある(イタイイタイ!と思いながらもガマン)。一通り背中への麻酔の管の挿入が完了すると「はい、次は仰向けになってこれ吸ってくださいねー」といよいよカップ状のものを口に押し当てられ、「あとは深い眠りについていきますよー」とか何とか仰ってたと思う。

手術終了は15:30の予定だった(約7時間)。

それが手術が終わり、ストレッチャーに載せられ、『病室戻りますよ!!ココどこだかわかる??ジュン・テン・ドー!!!』と周りの人が絶叫している。

ストレッチャーが右に左にとグルングルンと動きまくり、頭の中で「吐く吐く!」と思いながら果たして自室の病室へ戻り、看護師さんらが『いま夜の9時!!!!』(今日も渋谷で5時?じゃないよね)。と再び絶叫している。ぼーっとする頭で12時間近く手術をしていたことを知らされた。そのまままた意識が遠のいて、その前後の記憶はこれ以外ほぼほぼない。

あとから看護師さんらに僕が大暴れしたこと、幸い体に装着された管などを抜かなかったことは不幸中の幸いだったけど、もう大変だったのよ、なんて仰っていたことを聞かされた。
そんなこと言ったって記憶がないんだから仕方がない。そりゃそうだ、朝から夜まで強制的に眠らされ、体の中をメスやら何やらで弄り回され、その後は体中に管がいっぱい生やされてんだから。

とにもかくにも手術中のことは記憶にないし、その後のこともよく覚えていない。
でもまずは手術が12時間という長時間に及んだこと以外、目的通りに果たせたことは告げられた。

あとでふと、「ということは関わっていただいたスタッフの方々は残業したということか、お昼はどうしたんだろう?」とかつまらないことばかりが浮かんだ。


僕の大きく腫れてぐだぐだになったS状結腸はものの見事にばっさりと切除され、その上端にある下行結腸と最下部の直腸とが縫い合わされ、そしてS状結腸がべったりと張り付いていた膀胱は一部を切除され、ヌイヌイされたそうだ。

ついでにいえば、おなかの上に小腸を引っ張り出され人工肛門も形成された(右の下腹部に梅干しが出来た)。これで大腸へは何もモノが通らなくなるので、安全に術後の経過を見ることが出来るそうな。ヌイヌイされた膀胱ももちろんそのままではいかんので、膀胱の中にはカテーテルが埋め込まれ、おしっこは強制的に管から対外に排出される。

何より人工肛門が一番ショックではあるが、これが健康面を支えるための最良策なのであろう。

夜の9時にドクターからウチの奥さんにお電話を入れていただき、僕も夜の11時頃にふと目覚め、メソメソと奥さんに電話をした。一番に奥さんの声を聞きたかった。全身麻酔による気道確保により喉も肺もやられていたため、しゃがれた声で聞き取りづらかったとは思うけど、何よりおくさんの声を聞けてほっとした。

明日来てくれるという。「早く来て!」と言ったけど面会時間は限られているし、奥さんも仕事がある、あとで何言ってんだと思ったけど、辛くて辛くて仕方なかったのだ。

以上、まずは12時間に及ぶ手術日当日の一切でした(といってもほぼほぼ記憶がないけどね)。

*ちなみにこれを書いているのは術後4日目の土曜日です。まだまだ書きたいことはあるけど、またゆっくりとその後の経過を随時お知らせしてゆきたいと思っています。

2025年9月25日木曜日

闘病日記・そのゼロ

闘病日記を書こうと思う、自身の備忘録として。また元気になったときに読み返してその反省を自身の行動に結びつけるため。

それは10年近く前のことだ。とてもよくしてくださるドクターHと友人Kとで食事会をしていたときのこと。ドクターHが唐突に「仲山君、おしっこするとき、緑色のドロドロみたいなの出ることない?」憩室炎を患っている僕のことを気遣ってくれた発言だった。ん?あるある、あまり気にしていなかったけど。
「それね、憩室炎と膀胱がくっついてしまうことで起きることだから気を付けた方がいいよ」。

そうは言うけど、どう気を付けてよいかわからない。憩室炎に関してはかなりひどかったけど、よくなるものじゃないしな、、、とやり過ごしてしまった。

そして10年近く日々痛む憩室炎をだましだまし過ごしてきた今年の8月。明らかに尿に便らしきものがポツポツと混じっていることに気づいた。。。いや、正直に言えばもっと前から気づいていたけど、自分で否定してきただけだ。僕のは違うと。

しかし現実を直視しなければならないほどその映像はひどく、どす黒い尿の中に便の塊が混じって噴出されているのだ。尿道の激しい痛みとともにその衝撃映像に「うーーっ!!」と一人トイレで呻く。
ある日などはおしっこと共に数日前に食したラーメンの中の「メンマ」が出てきたことがあった。おしっこの出口からメンマだよ、これは痛むどころの話ではなく、衝撃的なその絵に絶望を覚えた(そのうちに笑い話になればいいけど)。

ご存知だろうか「グリーンマイル」という感動映画で主人公の一人・看守のエッジコム主任が、膀胱炎を患いながらおしっこをするシーン。エッジコム主任曰わく「カミソリを出しているかのような痛みだ」というセリフとともに、ある晩では痛みで脂汗をかきながら苦渋に溢れた表情でおしっこをしながら膝をつくあのシーンを。

それぐらい痛い。ジンジンと痛む尿道を抱え、大汗をかきながらヨロヨロと立ち尽くす(痛すぎてすぐに座れないのだ)。

その後すぐに文献を読み漁り、「大腸膀胱瘻」という疾患であること、これは手術以外に治す方法がないこと。それらを看護師たる奥さんにも正直に告白した。

8月2日(土)近所の泌尿器科を受診し、やはりこの疾患であることが確定。すぐに他院を紹介してもらったのだけど、紆余曲折の末、先ほどのドクターHに相談・ご紹介していただいた順天堂大学医学部附属順天堂医院にお世話になることとした。
*参考までに憩室炎で定期的に通院していた東京女****のドクターからは「水を飲んでおけばいい」と一蹴、吐き捨てられた。
毎日ガブガブ水を飲んで便で常に汚染されている膀胱をキレイにしておくことは理屈上は理解できるけど、ヘタをすれば腎臓に影響も出るこの疾患を「水飲んでおけ」はないよと、心底がっかりした。この病院のこのドクターさんには二度とお世話になりたくないと思ったわけです。

その後は順天堂医院さんであれよあれよという間に検査漬けの日々、この世のすべての病院検査をこなしたんじゃないかと思うほど検査に明け暮れた(心臓も患っているので慎重になって下さったのだと思う)。

そして手術日まであと数日となった今日、メンタルは穏やかでない。
大腸肛門科の主治医のドクターが「この手術、大変なんだよね。1日がかりになるから。他の科の協力も仰ぐしね」
あ~この手術って大変なんだ。全身麻酔なんてしたことないし。それに大腸切除は物理的にわかるけど、穴の開いてしまった膀胱はどうするんだ?(よもやヌイヌイ!とかするわけじゃないだろうし)

術後も色々あることは覚悟している、おそらく僕はオストメイトになるのだろう。
主治医の先生が言う。「このことを事前に了解・覚悟してくれると僕らも安心して執刀できるんだ。」と。
別にオストメイトになりたくてなるわけじゃないけど、覚悟を決めなければなるまい。だって手術後に自分のおなかを見て絶望したくないもん。ある日このことを想像しすぎて奥さんの前で不覚にも涙がこぼれてしまった(情けない)。

世の中にはたくさんのオストメイトの方がいる。僕よりももっと重篤な方もいるだろう。それでも五体満足だった自身が機能的に変わってしまうことを受け入れるにはまだ時間が必要だと思う。
信頼するドクターHも今日「術後は何かと不自由だけど頑張れ」とメッセージをくれた。

奥さんはこのオペ+入院生活を前向きに応援・支えてくれている。

これからの闘病生活と変わりゆく自身の日々を書き記そうと思った。
同じ疾患を抱えている人の目安になればと思う。

2025年9月11日木曜日

音楽とわたし

「部屋とワイシャツと私」みたいなテーマですが、内容は全然違います。

家族はもちろんですが、一部の親しいお客様や友人、仕事関係の皆さんには現在僕の健康状態(疾患)についてお話しをしています。
そう、色々な活動が制限されることから、事前にお話をしておかないと迷惑をかけてしまうから。そういう意味において開示しているわけです。
また今後僕の生活スタイルも激変することになると思われるため。

正直変わってしまうであろう自分との心の折り合いをつけるには時間が必要で、今も葛藤をしている(まだまだ受け入れられるかは自信はないけれど、命あっての物種だと言い聞かせている。。)。

そんな中、現在活動を休止している音楽活動(自身の所属するバンドやサポート活動すべて)も今後復帰出来るとは到底考えられず、先日、自暴自棄というわけではないけど、手元の音楽機材をあらかた売却してしまった。
でもまた元気になって音楽活動に戻れる日がきたら改めて購入すればよい、とも思ったわけです。

するとどうだろう、もう楽器を演奏出来なくなってしまったと感じたその瞬間、モーレツな楽器演奏欲が噴き出し、売却せずに残しておいたギター片手に猛練習を始めてしまったのです(普段サボってばかりなのに、メトロノームでリズムを刻みながらひたすら反復)。

いやいや、やはり仮にバンド活動やサポート活動に戻ることは出来なくとも、一人で楽器を演奏することは可能だし、 やはりエレキギターの生音ではなく、アンプで爆音を出したいよね(ご近所迷惑・笑)、ということで楽器機材をあらかた売却してしまって1週間も経たないうちに、アンプを買ってしまった・・・(RolandさんのBlues Cubeというシリーズです)。

よく失って初めてその存在の価値や大切さを知るとはいうけれど、音楽が僕にとってこんなにも身近で大切なものとは思わなかった。

現在、加療している大学病院でもある日問診票の片隅に「生きがいは何ですか?」といった項目があり、そこに迷わず『音楽活動』と記入した。ヒアリングいただいた看護師さんからもリップサービス込みで「へえー、音楽されるんですか?いいですね!なんの楽器を演奏されるんですか!!」なんて質問をされ、気恥ずかしさとともに回答する、、、還暦を迎えた60歳の僕が「読書や映画鑑賞やゴルフやジョギング」ではなく、『音楽活動』と書けることに少し誇らしさを感じたし、その活動を許してくれる奥さまや、一緒に音楽活動してくれる仲間たちに本当に感謝している。

これから主治医さん曰く大手術(1日がかりらしい)が待っているので、そこから先の障害を背負って生きるであろう僕にバンド活動等へ復帰出来る様子はまったく想像できないけれど、でも音楽演奏が寄り添ってくれることを忘れずにいたいと思った。